阪神大震災の1週間位後。神戸、長田地区に入りました。交通網が遮断されていて、まだ、船で行くしかなかった時期。
OLの習い事で通っていた文章教室で、私は少々目立っていたので、先生に声をかけられたんですね。某月刊誌の特集の取材で神戸に入るから、一緒に付いておいで。未曾有の大災害を、自分の目で見ておきなさいよ、と。
マスメディアの報道で、伝わってくる神戸は、長田地区の焼け野原、折れた高速道路、潰れたデパート、etb。。ゴジラの暴れる場面のような、センセーショナルな光景が、一本調子に伝えられるばかりでした。
当時の私は、妙齢の未婚女子。先生と二人きりで泊まりがけの取材に同行するのは困ります。某大物芸人のご子息も一緒でしたので、それならいいや、行ってみよう、と思い、生まれてはじめて、寝袋を買いました。
まあ、いろんなことをやってみたい性質なのですね。チャレンジするの、好き。
大阪港から船で神戸入りし、タクシーで長田地区へ向かいました。長田地区は、被害のひどかった地区です。すでに結構片付けが進んでいて、まっさらな更地になってるところが所々ありました。
「ここ、姉がいたんですわ」
真新しい地面を指差して、タクシーの運転手さんが言いました。
間髪入れず、「死んだんですか?」と先生が食いつきました。
「・・・」運転手さんの驚いた顔。
びっくりしすぎて、腹も立たないって感じ。宇宙人が吠えた👽みたいな。笑
いっそ、ここまで突き抜けた方がいい🚀☄️ってのはあるけど。。
ハラハラ💦😓😨😱🥶びっくり‼️😳😱😰
先生を見ると、完全に野獣の目になってる🦁🐯悪気のカケラもない。だって、肉食獣なんだもん🦁ウサギ🐰が跳ねたら、自動的に 食いつきます、って感じ。。
いい記事を書きたい一心で、テンション上がっているのはよくわかるのだけど。。
うーん。。
いきなり、もやもや。
そこから半日。もやもや、もやもや、もやもや。
先生には先生のスタイルがある。タイトな締め切りの制約の中で、読み応えのある記事を、と殺気立ってる。ボーボー燃えている🔥。食うか食われるかの世界。
だけど私は、こういうことじゃなくて、何か違うことをやりたい。じゃあ、何がしたいんだ?と言われても答えはない。
私も先生も、そのことについて、一言も話さなかったけど、お互いに感じていました。方向性が違う。合わない。やりにくい。
「貴女は行けよ」
先生は、パシッと引導渡してきました。
往年の名映画監督のお宅に着いた時には、もう、暗くなっていました。奥様が心配して、今夜は泊まっていきなさいよ、こんな時だから外は危ないわよ、女性が襲われたっていう話も聞くし、とオロオロ。
先生は、子分に使えない奴はいらん、いらん荷物引きずってたら、こっちが死ぬわ、っていう感じ。笑 恥も外聞もない。取り繕いもしない。紳士じゃないけど、卑怯じゃない。本気の野獣です。🐯ガオ〜
「私は別行動します。ここで失礼します」
私は私なの🐥頑張ろー❣️
ご挨拶して、映画監督のお宅を出ました。そして、長田地区のボランティアの宿泊場所になっていた市庁舎に行き、寝袋に入って眠りました。お財布は肌身離さず、です。
有給休暇を取得していたので、フリーです。さて、何をやろう。
災害時のボランティアは、それを取りまとめるセンター機能が大事な要です。地域の人が地域の事情に最も詳しい。だけど、ご自身も被災しているので、余裕がない中で、火事場の馬鹿力で動く状況が続くんです。
ボランティアしたい人のやる気を生かすシステム構築自体が、難しい。支援物資の仕分け、分配も大変。人の役に立つって大変です。
せっかく来たんだから、自分なりに何かやって帰ろ、と思い、一人で、長田地区の避難所に行ってみました。とことこ歩いて。
最初に、先生とタクシーで通過したのと同じ地点ですが、タクシーの車窓からは見えなかった景色が、見えてきました。当時、マスコミが、よく報道していた長田地区の焼け野原。通りの向こう側は、焼け野原じゃない。
通りのあっち側とこっち側で、全く違う。だけど、引きで俯瞰で撮影しないで、焼け野原と倒壊建物ばかりをクローズアップで繋いで報道するから、なんだか、ゴジラな光景になる。
焼け野原じゃない中にも、大事なことが沢山あるんですよね。。
避難所は、地震から1週間経ち、疲れが色濃くなってきたところでした。命が助かった安堵感は薄れ、今後の不安が頭をもたげる中、余震は続き、プライバシーはない。マスコミがマイクを向ければ、笑顔で応対。「頑張ってください!」「がんばります!」マスコミが立ち去ると、脱力して、ボンヤリした顔で、下を向く。
うーん。。
様子を見ていて、思いついたことがあり、段ボールを拾って、マジックで書きました。
『あんま、やります』『肩もみ、します』
紐を通して、首からぶら下げ、呼びかけてみました。
『あんま、やりまーす。肩揉み、しまーす。いかがですか〜。』
すると、すぐに、何人かの方々から、声がかかりました。どなたも、身体がゴリゴリ、ガチガチ。とても凝っていました。肩を揉んだり、腰をさすってあげていると、ほろほろ、ほぐれて、溢れて、こぼれ出してきました。遠慮がちに、そっと。愚痴とか、悲しみとか、不安とか、不満とか、弱音とか。これまで我慢していた、色々。
張り詰めていた気持ちも、解けていくのですね。
ふん、ふん、へえ〜っと、聞きながら、肩を揉んだり、腰をさすったり。
えぐり出すんじゃなくて、暴き出すんじゃなくて。
他愛もないおしゃべりをして、気持ちを通わせたり、感じたり。互いに響き合うような。こういうことの方が、私は好き。
有給休暇の都合で、数日しかやれなかったけど、連日、段ボールの看板をぶら下げて、一人で避難所に出向いて、たくさんの人の肩を揉み、腰をさすりながら、たくさんおしゃべりをして、たくさんのお話を聞きました。
今思うと、その後に改善の取り組みが進んだ問題点が、たくさん含まれていました。
やたら食べ物が溢れかえって、困惑している人が多くいた。→食べ物の配分がうまくいってなかった。食べ物が届かず困窮していた地区やご家庭もあったのに。
落ち着かなくて、陰鬱になる方、攻撃的になる方が多かった。→避難所におけるプライバシーの配慮を考える視点が欠けていた。
本当は犬が苦手で大嫌いで、お隣のマルチーズが怖くて、巨大なストレス溜め込んでる方がいた。→ペットをどうする?の問題。
他にも、色々。
自分なりの締めくくりの意味で、たまたま出会った、ピースボートの新聞に寄稿して、小さな足跡を残して帰ったつもりでした。そしたら、後日、私の書いた小さな記事が、NHKラジオで読まれて、それをたまたま祖母が聞いていました。
祖母がくれた手紙。。なんか、くすぐったいような。。
大震災で大切な人を亡くされたり、被災して大変な経験をされた方々とは、大きさが違う、重さが全然違う、別チャンネル、別次元、横?脇?B面?みたいな話ですが。
大きな災害は、広範な人々に、それぞれ何かをもたらし、気づかせ、突きつけるものかもしれません。