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魅惑の『せこ(道)』〜亀崎の路地裏。ちょっとだけ昔の話。ゴッドハンドで、目の不自由なあん摩のおばあさん

ちょっとだけ昔。亀崎に本当にいたおばあさん。N川さんは、全盲のあん摩さんで、私が出会った時は完全に『おばあさん』でした。ご自宅で、看板も出さず、クチコミのみ。予約制で、一日に数人。限られた人だけ、あんましていました。

その頃、私は体調が悪くて、困っていました。大きな手術を受けて以来、どうにもこうにも、体調がガタガタになってしまったんです。まだ若いのに。

N川さんのお家は、近所だけど入ったことのない路地裏にありました。亀崎は、せこ、せこ道、と呼ばれる路地が多い地区です。『せこ』の家々は、近接し、密集しています。昔は、お風呂がない家がスタンダードで、皆、お風呂屋さんに通ったそうです。相互扶助、立ち入らない配慮、共同井戸。独特な暮らしのスタイルと入り組んだ人間関係。『せこ』には、今も、独特の雰囲気があります。

N川さんのお家は、日本昔話に出てくるような、凄みのある外観で、瓦屋根のところどころ剥げて、草が茂っていました。前のドブをヘビがすらすら泳いでいて、息を呑みました。

勇気を出して、ごめんください、と戸口を開けると、土間。右側の部屋に薄い布団が敷かれていて、目の不自由な小さなおばあさんがいました。ハイ・トーン気味の明るい声で、ささやくようにお話される感じが、何度も洗い晒したタオルケットみたいに優しくて、くたっと包まれる感じがしました。

私は既に、お医者やら鍼やらお灸やら足ツボやら整体やら温泉やら、体調を改善したくて、あれこれ試していて、色々思うところ、感ずるところがありました。お医者でも民間療法でも、力のある方は随所にいらっしゃる。持ち味はそれぞれ。得意分野もそれぞれ。今の自分に合うか、合わないか。自分の頭で考えて、心で感じて、決めるんだ。

N川さんは、弱い波のように作用する施術で、危なげがなく、じわじわじんわり効いて、助けてくださる。1発で華々しく『奇跡』を起こすタイプの施術ではない。地味なゴッドハンドだわ、と思いました。しかも、安いっ。ただし、凄みのあるお家に行かなくてはなりません。

私にN川さんを紹介してくださった方々は、たまたまですが、とびきりの『きれい者』ばかりでした。きれいしゃ、という言い方は亀崎弁かしら?きれい好きの意味です。突然伺っても、お家の隅々まできれいに片付いているような方ばかり。N川さんは良い方だし、安いし、とっても上手、だけど、胸張ってお勧めしにくいの、良かったら行ってみて、というモゴモゴ正直ベースで、お勧めしてくださりました。タンスの上から蛇🐍が落ちてきて、もう、怖くって😱とか。お布団が古くて気になるから、お布団をプレゼントしたいけど、やはりそれはかえって失礼になるから、言い出せないわ😓とか。皆さま、悩ましく思われながらも、N川さんのゴッドハンドから離れられず、腹を括って通われていました。蛇が落ちてくるのと、重い偏頭痛に悩まされ続けるのと、天秤にかけたら、滅多に落ちてはこない蛇の方は目をつむることになるのですね。笑

私も時々通うようになり、色々話をするようになりました。

おばあさんですから、昔の話、子どもの頃の話も沢山聞かせてくださります。親しくなると、私の身元、出自も聞いてこられます。聞いてるうちに、あれ?と引っかかるようになりました。

私の父方の曽祖母と親交があったとわかりました。

「あなた、お仙さんのひ孫さんだったのねえ❣️❣️❣️」感激で、声を震わせて。

私の方は、(おじいちゃんが言ってたのは、N川さんのことだったんだー!)とわかり、絶対に言えないわ💦🤭と思っていました。

祖父は、よく私を座敷に呼んで、お薄を一服立ててくれました。両口屋是清の二人静をお供に。小さな孫娘相手に、骨董を見せたり、リアルすぎる本音の昔話を聞かせたりしていたんです。貧しかった子ども時代に、近所に住んでいた目の不自由な女の子の話は、何度も聞いていました。その子がうちに来ると、おじいちゃんのお母さんは、その子にご飯を山盛り食べさせてしまう。お腹いっぱい食べていきなさい、遠慮しないで、とどんどんお代わりを勧めちゃう。「そいつがまた、よく食べるんだ💢」あけすけな祖父の口調と暗い目。子どもは、祖父を含め、男の子5人、女の子1人、育たず亡くなった子が3人。

「あの頃は毎日ほんとに腹が減っててなあ。おふくろは俺たちには絶対文句言わせないし。食べるものはやっちゃうし。たまったもんじゃなかった」

他方、N川さんの方は、声を弾ませて、凄い勢いで、曽祖母のことを話してくださいました。会うと温かい声をかけてくれた。うちでご飯食べていきなさい、遠慮しないでお腹いっぱい食べて、と優しくしてくれた。とてもとてもおいしくて、おいしくて。。時代は、大正末期から昭和初期。

当時、曽祖母は、ダメ夫の曽祖父と二人、商売を転々と変えて、、ていうのは、要するに、失敗しては、新たなチャレンジをしていたのですね。しかも子だくさん。

N川さんには言わなかったけど、曽祖母も言わなかったのでしょうけど、実は曽祖母はたいそうな姫様育ちの人でした。「ばあや」だの「ねえや」だのにかしずかれ、豊かな教育を受け、大きな屋敷で何不自由なく育てられ、水害がきっかけで没落しました。戦後、息子達が企業して成功したので、晩年は裕福でした。明治生まれの女性としては珍しく、選挙権も持っていた、と叔父が言っていました。夫である曽祖父は選挙権がなかったのに。ほんとかしら。真偽はわかりません。ただ、とても話が面白くて、心が豊かで、人を惹きつける魅力的な人柄だったようです。

曽祖母のお付きだった女性が、近所に住んで、曽祖母を気遣い、何かと世話したり、心配したり。終生、曽祖母を支えてくれたそうです。没落した主人に、仕え続けたのですね。ドライな雇用関係じゃなくて、ご恩、奉公、忠義、の精神が生きていた時代だったのでしょうね。

結局、N川さんのところには、たまーにお世話になる感じで、未婚の時から10数年通いました。行くと体が楽になり、助かりました。私が結婚した時には、とても喜んくでくださりましたが、その後、長く子宝を授からず。その間、N川さんは言い続けてくださっていました。

「あなたは必ず一人は子どもを授かりますよ。私にはわかるんです」

ほんとに?と思うような状況でしたが、N川さんは一度もブレることなく、揺るぎない自信持って、言い続けてくださいました。静かな口調で。寄せては返す、弱い波のように。

「あなたは子どもを授かりますよ。一人は必ず。だからね、授かった時には、そのことは言わないで、黙って私のところに来てくださいね。私は、授かった人の身体を触れば、本人がわかってない時にだってわかるし、この辺を触ると(と言いながら、私の腰の骨の辺りを触られて)お腹の子が男の子か女の子か、ちゃんとわかるの。だから、きっと、当てさせてね」と、ワクワク、茶目っ気たっぷりに言われてました。

7年後、私は子どもを授かりました。ばっちり高齢出産の年齢になっていて、N川さんは既にお亡くなりになっていたので、胎児の性別を言い当てていただくことはできませんでした。だけど、たしかに、私は、一人、子どもを授かることができたのでした。天国で「当てさせて欲しかったわ〜」と悔しがりながら、「ね、授かったでしょ」と笑ってくださっているような気がします。

 

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