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この世のものではない不思議なお話〜沖縄① 荒崎海岸・ひめゆり学徒の女の子たち

私は、子どもの頃から、この世のものではない方々を見たり、感じたり、聞いたり、、ということが時々あります。マスコミに登場する霊能者さんや占い師さんのような、明確で有益でパワフルな感じじゃなくて、薄ぼんやり、淡く、無能で役立ちない感じ。

映りの悪いテレビ、雑音だらけのラジオ、すぐ落ちるパソコン、ひび割れだらけのスマートフォンみたいな。

なんというか、

ショボい🍂🍂😅

とはいえ、それでも、『無い』のではなくて『ある』ので悩ましい。全く『見えない』『聞こえない』『感じない』なら、『無い』のでしょうけど。

うむむー。悩ましい。

何かが見えても、それが役立つわけじゃないし、だからなんなんだ?とも思うし。それがどーした?!とすごんでみたところで、割り切れるわけでもないから、さらに、ずしーんと重みが増すし。皆が見えてるわけじゃないから、うかつに話せば、反感買うか、変な人扱いされそう。

もやもや、おろおろ。

で、

どうしたものかしら、何かやれることあるかしら、と考えるのですね。考えちゃう。

きれい好きな人、と似てるかもしれません。ゴミや汚れが目に入る、散らかってると気になる。気になるから、片付けてきれいに整える。サッと拭く。反対に、『気にならない』『目に入らない』人は、ゴミだらけでも散らかり放題でも全然平気で、そのまんま。

ゴミなら拾えるし、散らかってるなら片付けられるけど。

実体のあるものではないから、難しい。

片付けて、拭き清めてスッキリ、というわけにはいかない。簡単じゃない。

でもね、まあ、

私としては、『気になる』時には、その時の自分の精一杯の気持ちを寄せることにしています。気になるから、気持ちで応えたくなるのですね。小さな、ささやかなことでも。


父方の祖父母は、二人とも、そっちの感受性の高い人たちでした。

祖父母とお墓参りに行った時などに、幾度となく言い聞かされたことがあります。

こういう場所では、石でも草花でも、拾ってはならないよ。悪いもの、厄介なものが、くっついてくるから。そっと、そのままにしておかなくてはならないよ。

こういう場所、というのはお墓に限らない、ということも、言われたような。そんな記憶が薄っすらあります。

では、どういう場所が『こういう場所』なのか。

そんな話もひとしきりしました。

地縛霊に敏感な祖父が、ぶるっと寒気がする場所は『こういう場所』です。それは分かりやすい。だけど、そういうのだけじゃないな、と。うまく言えないけど。

だから私、よくわかっていたのです。

だけど、それでも、私はやっちゃったんです。かなり派手に。

①ひめゆり散華の地、荒崎海岸にて

昨春、夫の転勤引越し(単身赴任)で沖縄に行った折のことでした。

引越しをすると一気に大量のゴミが出ます。段ボール箱と梱包資材が山のよう。最寄りのゴミ処理場を調べて捨てに行くと、そこは荒崎海岸のすぐ近くでした。私は、ひめゆりの塔の名前と概要は知っていたけど、詳しくは知りませんでした。ひめゆりの塔はその時期リニューアル工事中で、中に入れず。案内板で荒崎海岸のことを知り、ゴミ捨てのついでに、行ってみようと思いました。

訪れるのはサーファーばかりの、波の高い、風の強い海岸。

静かで美しい浜は、白砂の浜ではなく、ゴツゴツした固い浜で、非常に歩きにくい。

白百合の花が、そこここに、咲いていました。

沢山の人たちが、心を寄せて、深い思いで寄り添い、祈りを捧げてきた場所なんだろうな、と思いました。

沖縄の明るく楽しい面は好きです。でも、暗部に蓋をして、近寄らず、上澄みだけすくうように、楽しい側面だけを享受するのは、居心地悪い。戦争の話は怖いけど、それも踏まえた上で、美しい自然や美味しい食べ物も味わいたいです。

この時、私は引越しをお手伝いしてくれた友人と一緒でした。大量のゴミを捨てた帰り道、彼女と二人で荒崎海岸に行ったのです。

二人でゴツゴツした浜を歩いて、碑を見ました。近くの岩陰に、古いコインが落ちているのを友人が見つけ、こんなのがまだ落ちているんだな、と生々しさを感じ、驚きました。ひめゆり学徒の話は、遠い昔のことのように感じていたから。

そろそろ帰りましょう、と思った時、友人に手招きされて行くと、浜に吹き溜まりのように、小さな白い珊瑚たちが固まっている場所がありました。

少女たちが楽しいおしゃべりに興じているような風情で、何個かの珊瑚が固まっていたのです。

立ち去ろうとした時、友人が『一つ持って行く?』と促しました。とっさに、祖父母の言葉が甦り、私は首を横に振りました。とんでもないわ、畏れ多いこと、と。

だけど、さらに友人に『持っていけば?』と言われた時、いいえ、と言いかけた自分の心持ちの中に、なんとも居心地悪いものを感じたのです。

子どもの頃、クラスの中の特定の女の子が、『バイキン』と言われていじめられていました。特段理由もないのに、なぜか標的になっていたのです。私は、その子を『バイキン』と言わなかったけど、『バイキン』と囃し立てる子たちを咎めたりもせず、もやもやしながら、どちらにも近寄らず、距離をとっていました。あの『もやもや』を思い出したのです。

あらためて珊瑚たちを見ると、生き生きした若い健康な好奇心に満ちた少女たちに思え、この場所の外の世界を見たがっているように感じました。

ひめゆり学徒の女の子たちは、戦争という、圧倒的で、理不尽な暴力のために、この浜で若い命を失った可哀相な女の子たち、という悲劇の側面だけの存在じゃない。一人一人、好きなこと、得意なこと、やりたいことのあった、元気で可愛い女の子たちだったんだろうな、と思いました。

そう思うと、ただ恐れ畏れて、畏まる(かしこまる)ばかりでいることの内に、上面しか知らないくせに、わかったような風をして、本当のところは、わかろうともしないで、十把一絡げに丸めて忌ごとのようにして遠ざけるような、疎外するような、少々慇懃無礼の要素を含んだ、何やらひんやりと寒々しいものを感じて、胸が痛んだのでした。

で、

私は、エイヤッと思い切ったのです。

『持って行くわ』と。

私は、珊瑚の中の一つを選び、家に持って帰りました。ひめゆりの女の子を一人、外の世界にお連れする感覚で。きれいな白い珊瑚ちゃん🪸を一つ。


うちに戻って、リビングの良い場所に珊瑚ちゃんを置きました。窓から海が見えます。

夕ご飯を作って、夫と二人で食べて、お風呂に入って眠りました。

さあ、そこからが大変。

私だけが、謎の下痢。腹痛はそれほどでもないけど、幾度となく下しました。

そして、暗い部屋の中に謎の光がビカビカ🔆🔅⚡️🔆🔅⚡️ラップ音も賑やか🎶💥🎵💥🎺🥁🎼🎸

珊瑚ちゃん🪸を連れて来たからだ、私、障ったんだわ、と思いました。珊瑚ちゃん🪸は、すっかり怯えきり、泣いているように見えました。

障りが出たからといって、珊瑚ちゃん🪸をあの場所に返す発想は私にはありませんでした。どこか、明るくて気持ちの良い場所へ、と思いましたが、適当な場所が思い付かず。夫が、元の場所に返しに行こう、と強く言い、二人で珊瑚ちゃん🪸を持って、再び、荒崎海岸に行きました。

ゴツゴツした固い浜を歩き出し、あの辺りにあった、とわかる場所ではなく、あえて、別の場所に、少し小高くて、海が見渡せる風の吹き抜ける、白百合の花々の咲いている場所に、珊瑚を置いて、数歩、歩き出した、その時です。

『バカっ!!』

しっかりした中年女性の大きな声が聞こえました。この世の人の声ではありません。と同時に、ひときわ強い海風に煽られ、さらに、私の足を無数の手が強く引っ張ったので、身動きできず、バランスが取れず、私は、ゴツゴツした固い浜に叩きつけられるように転んだのです。

転びながら、私の周りで、たくさんの声が聞こえて、たくさんの手が伸びて、たくさんの冷たい目線や憎悪の雰囲気、と同時に、その逆のものも、たくさん。

『この人は悪い人じゃないさー、良い人さー、バカだけど』

最初に私を『バカっ』と叱りつけた中年女性の大きな声が響きました。それに加勢するように、多くの女の子たちの声が聞こえました。

『そうさー』『この人は悪い人じゃない、いい人さー。バカだけど』『いい人さー、バカだけど』『いい人さー、バカだけど』『悪い人じゃないさー、バカだけど』『バカだけど』

こんなに沢山の、この世の人じゃない人たちに“いい人だけどバカ”🤪と言われるなんて、初めてです😳

びっくりするやら、痛いやら、怖いやら。

なんとも言えないユーモラスな感じは確かにありました🤪😁😄確かに可笑しい😅😂☺️と同時に凄く怖い🥶😨😰😱可笑しくもあるけど、笑えません🫢😬痛すぎて、怖すぎて😫🥶😨😱

全く。確かに、私はバカでした。

こんなにも沢山の人たちが、死後半世紀以上経っていても、沢山の人たちに心からの慰霊の祈りを捧げられていても、いまだ癒えることのない心の傷を負ったまま、この地に強い思念を残していることの重さをしっかりわからないまま、自分の思いで突っ走って、場を乱したのですから。

そして、この時、はっきり分かりました。

この浜は物凄く風が強いのです。物凄く‼️です。サーファー達が好んで来るくらいですから。そして、ゴツゴツした固い浜なんです。珊瑚礁が隆起した浜で、いわゆる『砂浜』とは全く違う。だから、ひめゆり学徒の女の子たちは、戦況が悪化して、ここに逃げてくる時、きっと、転んだだろうな、と思います。普通のフワフワサラサラの砂浜とは違い、物凄く痛いのです。←経験者🙋‍♀️

ひどい怪我をした子も多かったでしょう。

豊かで平和な時代に生まれた私の、想像も空想も越えた悲惨な状況がそこにあったことが、おぼろげながら感じられ、想像の幅が少しだけ広くなったのでした。

夫が駆け寄って起こしてくれたので、私は事情を話し、二人で珊瑚ちゃん🪸を元の場所に戻して手を合わせました。

うちに帰って、ソファで休みました。夫はすぐに病院に行こう、と言いましたが、コロナ渦中、引越ししたばかりの不案内な土地でもあり、そもそも私は、化学薬品アレルギーがひどいので、医者に診てもらうのは、相当に気が重いのです。行かない、休みたい、と話して断り、ビワの葉の焼酎漬けエキスを痛むところに塗りつけて、お茶を飲み飲み、休みました。顔の頬骨や目の周りがズキズキ痛むし、足もあちこち、そして、一番ひどいのは左手で、特に中指が痛みました。

顔にタンコブできてるんじゃないかしら。お岩さんみたいな酷い顔になってるんじゃないかしら。

すぐに鏡で確認しました。顔の痛みがずいぶん酷いから。だけど、痛みのひどさの割に、傷は一つもありません。アザもありません。足もずいぶん痛いのに、傷もアザもない。翌日になっても、顔も足も、腫れたり、青あざになったりしませんでした。

それが、とても不自然で、すごく不思議でした。

左手の中指だけは、かなり腫れましたが、ビワの葉の焼酎漬けエキスを塗っていたら、次第に腫れも引いたので、そのまま、引越しの片付けをやりました。

だけど、その後、1ヶ月も経ってから。毎日お皿を洗って水で流す時に、痛みが出ることが続くので、整形外科に行って検査したら、左手の中指の第一関節が骨折していました。医師には、よく放っておいたね、と笑われましたが、骨折の程度としては軽いので、何もせず、気をつけて(庇い気味に)暮すうちに、自然に治りますよ、と。

さらに、その直後、夫が滑って転んで、肩の内側の細い骨を骨折しました。引越ししたばかりの沖縄で、初めての梅雨を迎えたばかり。湿度の高さに不慣れな転入者がたまにやらかす、みたいです。

そんなこんなで、私たち、夫婦揃って小さな骨を折り、色んなことを味わい、沖縄のこと、戦争のこと、調べたり、考えたりを始めたのです。

左の中指を見る度、ひめゆりの女の子たちのことを思います。


⭐️その後〜

ひめゆり資料館、リニューアルオープンのニュース。(NHK総合)

次世代に、どう語り継ぐか、が課題になっているようです。


⭐️さらに、その後〜

本を読んだり、調べたりしました。あまりにも悲惨すぎる話なので、どきつくて、最初は、読もうと思うこと自体がしんどくて、なかなか読み進めることができず、ポツリポツリと、進みました。

二冊、ご紹介します。二冊とも、とても良い本です。

⭐️さらにさらに、その後〜

ある程度、知識を肥した後、はじめて、ひめゆり資料館に行きました。

資料館の売店で、本を買って帰りました。

⭐️さらにさらにさらに、その後〜

ゆっくり読んで、考えて。また、ひめゆり資料館へ。2回目は夫と二人で。

帰り道、二人で話した中で印象的だった会話。

(夫)「やはり展示品がさ、ひめゆり資料館は、生き残った元ひめゆりの女性たちが発掘して展示しているからかな。なんか、違うよね」

(私)「だね!そうだね。なんか、優しいっていうか。『晒す』『暴く』じゃなくて、亡くなったお友達の尊厳やご遺族のお気持ちを大事されてる。そこがしっかりしていて揺るぎないのだろうね」

史実の悲惨さをえぐり出し、声高に叫ぶ見せ方ではなく、平和だった戦前の学舎の様子や女の子たちの日常など細やかに示すことで、『戦争』を浮き彫りにする見せ方。

ひめゆり学徒の女の子たちは、沖縄全島から進学した、優秀で、志ある、大切な女の子たちでした。修学旅行のスケジュールが、なんと1か月間もありました。当時の交通事情で沖縄から行くのですから、時間がかかる事情もあったでしょうが、日本本土を広範囲に巡る旅程。当時の沖縄の、本土への思いの強さ、将来教師になる、子を産み育て、社会を牽引する女の子たちに、本土に引けをとらない、幅広い見識を与えたいと願う大人たちの熱意が感じられます。


資料館では、元ひめゆり学徒たち、お一人お一人の談話が映像資料として流れています。お一人お一人の体験を、それぞれの言葉で語られています。

ひめゆり学徒たちの学園があった地区の、今は商店街になっている場所に、同窓会館があり、活動拠点になっていた、とわかりました。ひめゆり資料館は、行政主導で作られたものではなく、ひめゆり学徒の生き残りの方たちの尽力がコアとなって作られたものです。ゼロからイチを立ち上げることは、とても力の要ること。活動拠点の同窓会館は大切な場所。学園が戦火で無くなった中で、同窓会館をつくることは並大抵でない尽力があったことでしょう。苛烈すぎる経験を封印して生き抜いてきた元学徒たちが、口を開き、体験を共有し、資料館を建設する道のりは、色々な山坂があったことでしょう。学園があった場所は、今、どんな風になっているのかしら。

⭐️その後、その後〜

車に自転車を積んで、那覇市安里に行き、自転車で辺りを走ってみました。ゆるゆるポタリング🚲😊

学園は今は無いけど、随所に『ひめゆり』の跡が。

生き残った元ひめゆり学徒の方々の、歩んでこられた足跡👣👣だな、あちこちに働きかけて、尽力されたのだろうな、と思いました。

ついでにぶらぶら、キョロキョロ。

古い商店街はアジアな雰囲気。ひめゆりの像の通り向いに、有名なやぎ料理店!牧志の方に走って、走って。お気に入りの、コーヒー屋さんで一服☕️🥰

⭐️その後、その後、その後

そして、3度目の、ひめゆり資料館に行きました。コロナが下火になったからかしら。修学旅行らしき子ども(といっても大きいな。高校生かな)集団が、熱心に説明を聞き、展示や映像資料を見ていました。

⭐️そしてさらにその後。4回目。

4回目のひめゆり資料館です。かなり来館者が増えています。修学旅行も。

館内に流れる証言ビデオ。これが、よく伝わるように練られて作られており、見応えあります。初代館長の本村つるさんのお話の中で、ちらっと、プロデューサーの方が、開館後に元学徒たちに説明に立つように言われて、、というくだりがありました。元学徒たちが長年封印してきたお一人お一人の体験を人に話す中で整理し深め、共有して、多角的により深く捉え直す過程があり、その後に、証言ビデオを撮影されている、という流れかしら。私の想像ですが。元学徒たちが資料館建設の活動を開始されたのが50代半ば。資料館ができたのは7年後。60代か70代の、ある程度経験が整理されて、語る言葉が生まれて、伝える力がみなぎっている時にしっかり撮影されている感じがします。

今回で全部、全ての証言ビデオを観ることができました。最初はお話を聞くのもつらくて、見るのも怖かったけど、回数を重ねるうちに深く聞けるようになってきた気がします。コロナ禍で、様々な状況があり、キツいことも多かったから、よけいに、よく響いて、沁みて、感じられたと思います。我が身に起きた諸々の言い難い事柄と元学徒の方々のお話は、心情が重なるところが不思議なほど多くあり、心が安らぎ、落ち着き、慰められ、励まされました。戦争は人が人でなくなる、と言われますが、コロナ禍のタイトな状況下で、武器は持たずとも、通常ならあり得ない成り行きは各所で起きた、と思います。個人レベルでも、世界情勢的にも。今は特に、色々重なり、考えさせられます。

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