年明け、コロナ騒ぎが中国で始まった頃に、名古屋の義母(ダンナくんのお母さん)が亡くなりました。四十九日は、コロナ不安の声が高まり始めた頃、今思うと、ギリギリセーフのタイミングでした。あの時でなかったら、他県に単身赴任のダンナくんは、仕事上の責任から、お母さんの四十九日であっても、名古屋に来ることはできなかったでしょう。ちょっと不安を抱えつつも、他県から参加の親族も集うことができ、思い出話に花が咲きました。
私は義母が好きでした。義母も私を好きだったと思います。破天荒で突き抜けた、強烈で猛烈な義母でした。京唄子、野村沙知代、細木数子、、の系譜。困ることも、頭に来ることも、度肝を抜かれることも、多々ありました。私と義母は時にハブとマングースの決闘のような状況もあり、ダンナくんと義父が遠巻きに固まっていたこともありました。生い立ちも複雑、海千山千たちを相手に真剣勝負で生きてきた、豪快で油断ならぬ義母。通夜、葬儀、四十九日と、本人不在(亡くなったのですから。少なくとも身体は不在ですよね)となり、忖度なしの本音トークが炸裂しました。
そこから、浮かび上がってきたのは、元はお嬢さま育ちの、怖がり屋で、気の弱い人が、奮起して覚悟固めて、一歩も引かず、戦い抜いた勇姿でした。ダンナくんと結婚したばかりの頃、「私は、嫁をいじめ殺さないから」とわざわざ正面切って宣言されて、びっくりしました。まさに「いじめ殺された嫁」や「いじめ殺された(に等しい)嫁」を、何人も見て育った人だったとわかったのは、もっと、後になってからです。
義母の実母も、激しい嫁いじめに耐えきれず、幼かった義母を筆頭に3人の子どもを置いて婚家を出てしまったので、義母は母のない子として育ちました。「家」という閉じられた空間の中で起こる理不尽や不条理は、歯止めなく、激化しがちです。「女性も職業を持って社会に出なさい。勉強や趣味は続けなさい。経済的自立を目指しなさい。あるいは、職業じゃなくても、何か、社会のために自分を役立てなさい。家の中にだけいたらもったいない。貴女も自分を生かしなさい」と、結婚前の両家初顔合わせの時に、一席ぶった義母。昭和のフェミニストらしい理論でガチンコ武装し、芯は大店の総領娘のプライドを持ち続けた人でした。
義母が亡くなった時、他県にいました。普段なら私が選ばないタイプの店に、なぜか、フラッと入りたくなって、入りました。アールグレイとフルーツロールケーキを注文し、お金を払って、トイレに入ったら、ダンナくんから連絡が入ったんです。その少し前から、急に辺りが薄暗くなって、ガラリと空気感が変わり、「ざわざわした感じ」に取り巻かれていました。義母の病室の空気が、一気に雪崩れ込んできた気がしていました。
義母は生粋の名古屋人らしく、喫茶店が大好き。中日ビルのサンモリッツ、高岳のボンボン、千種のコメダ、東急ホテルのモンマルトル、デパ地下の赤福、名鉄の、今池ガスビルの、名古屋キャッスルホテルの、三越の、大須の、熱田神宮の、名古屋観光ホテルの、、。義母とどれだけ沢山のカフェや喫茶店や甘味処に行ったか、わかりません。照明の明るい、オープンな感じのカフェが好みで、こだわりの強い店、とんがった感じのカフェは好みませんでした。
香りのいい紅茶、オーソドックスなバランスの良いコーヒー、抹茶、日本茶はたっぷり何杯も飲むのが好きで、おまんじゅう、ケーキ、アイスクリームなど、甘いものが好きでした。
義母と二人でお茶をしている時の、向かい合ってる時の感じがしました。私の前に、今、ここに、義母がいる。亡くなって、すぐに飛んできてくれたんだな。私とお茶しに、一服しに。
結婚式の後、電話で、「K(ダンナくん)を頼みます。よろしくお願いします。お願いしますね」とわざわざ言われた時のことを思い出しました。
紅茶もケーキも、砂を噛むような。。最初だけは味がしたけど、あとはほとんどなんの味もしませんでした。食べた実感がないです。ほとんど全部お義母さんが召し上がられたのね、と思いました。くたびれて、お腹すいたんでしょう。どうぞ、どれだけでも、召し上がって。
甘いものが欠乏すると頭痛くなってイカンわ〜。義母のけたたましい名古屋弁が聞こえる気がしました。
不思議な感じでした。