人の話を聞く時に『つまらない』と感じる3大要素は①愚痴②自慢話③同じことを繰り返す、ですが、『つまらなさ』の真髄はそこじゃない❗️と思います。
正味のところが語られていない、魂入ってない話はつまらない。
そつなく上手に手際よくキレイに語られていても、中身のない話はつまらないのです。身を入れて聞く気持ちが起きません。
魂入った真におもしろいお話なら、『つまらない』3要素がフルセット入っていても、おもしろい。
ていうか、本当にめちゃめちゃおもしろいお話には、3要素が入ってることの方が多いのです。まあまあおもしろい程度の、こじんまりしたスケールのお話には入っていない場合もあるが。
子ども時代、私の育った家は小さな会社を経営しており、敷地内に小さな工場がありました。父が障害を負ったのは、その工場内のエレベーターが落ちたためで、危ないから工場の中に入ってはいけない、と厳しく言われていました。その口元にあった作業所で、大叔母は従業員として働いていました。大叔母は祖母の実の妹。早くに夫を病気で亡くし、独り身でした。とても身体が丈夫で、非常に気丈夫で、気働きも良かった。身体がよく動くし、ものすごい早口。頭の回転が速くて、脳🧠がフル稼働してる感じ。脳の力が有り余って溢れかえって、おしゃべりが止まらず、喋りまくる人でした。貧困のために、上の学校には行ってないから、学歴はないけど、頭が良いのですね。
大叔母は看護師でした。何せ大昔の話なので、看護士は医師の家に奉公して、、という時代です。正看護師の資格は持てなかったのかもしれませんが、戦争中は従軍看護婦として戦地で働いたそうです。お見合いで結婚したお相手は身体の弱い人。大叔母は声がかかれば、色々なお宅で働きました。結核にかかった方のお世話も、恐れず引き受けました。子どもたちが幼児ではなくなると、とある大富豪の家で働くようになりました。
その家には何人も使用人がいました。奥様が潔癖症で、この場所はこの雑巾、ここはこの雑巾、ここはこの布巾と場所や用途別に雑巾や布巾を分けたい人で、そのハイレベルな衛生観念を理解できない女中が次々辞めさせられてしまい、続く人がなかなかいなくて、困っていたらしい。
☝️最近読んだ本☝️私は京都の誠光舎で買いました。Amazonでも買えます。
『ためさるる日〜井上正子日記』の中に、この時代、スペイン風邪が流行した影響が色濃くあった様が描かれていました。叔母にあたる人が常に小さなケースに消毒液に浸した脱脂綿を携帯していて、百貨店の食堂で食事をとる前に、姪である著者にもその脱脂綿で手指を消毒してから食事をとらせる描写がありました。知識層や上流階級の中に、衛生観念が強い人たちがいたのでしょうか。
大叔母はご隠居さん(前社長)専属の看護師として雇われましたが、ご隠居さんはそれほど身体が不自由ではなかったので、普段は他の女中たちの仕事を手伝って家のこともしました。
ご隠居さんは、日本人なら誰でも知ってる某有名企業の元社長。お付き合いも華やかで、某財界人(地球規模で有名)とは仕事を離れた後も仲が良く、お二人で旅行に行くこともありました。大叔母も看護師として同行し、ご一緒にカニを食べたりしたそうです。大叔母は大食いで食いしん坊で、しかも札付きのけちん坊でした。貧しく生まれ育ち、戦時下のもののない時代を生き抜いているので、『もったいない』精神が染み付いていて、食べ物を残すことができません。お二人が残したカニも食べられるだけ食べました。
大叔母の話がおもしろいので、私はよく、台所の炊飯器に残ってるごはんでおにぎりを握り、大叔母の休憩時間に出かけて行きました。大叔母は、アルマイトの大きなお弁当箱一面の巨大な日の丸弁当持参で仕事に来ていましたが、それでもご飯が足りない人で、私の握った塩おむすびを喜んで食べてくれたのです。精一杯大きなおにぎりを握りました。大叔母は、いつも私にお菓子をくれたので、子どもながらに『お返し』『お礼』の意識もありました。

大叔母の『もったいない精神』は筋金入りでした。相手が誰であろうと口を出さずにはいられないところがありました。だから、大富豪のご隠居さんに対しても、ついつい『言っちまう』ところがあったんだろうな。ご隠居さんは時々デパートにお出かけになりました。それに大叔母も看護師として同行するのです。ご隠居さんには専用の運転手がいて、愛車のジャガーに乗って行く。デパートに着けば、もちろん外商の方が付いて歩きます。ご隠居さんはもうお仕事は完全に引退しているし、着る物は溢れるほどお持ちだし、食べる物と言ったって、お年寄りですからね、それほど食べられるわけじゃない。大叔母は無駄遣いが大嫌いなので、最高級外車に運転手付きで出かけて外商さんがくっついて回るご隠居さんの優雅なお買い物の時にも、ついつい口を出してしまう。ご隠居さんが、ネクタイを棚の端から端まで全部、と言ってお買いになるのを、ネクタイならお家にいくらでもあるしそんなに沢山いるわけないでしょう、もったいないからやめとけ、とか言っちゃう。一時が万事その調子なので、ついに、ご隠居さんが息子さん(社長さん)に文句を言いました。あの看護師さんが居ると買い物が楽しめない、と。で、大叔母は息子さんに大目玉の説教をくらった。「お父さまが欲しいと言われるもの、好きなように買わせてあげたいんだ。お楽しみの買い物を止めるんじゃない。お父さまが欲しいと言われるなら、デパートごと買ったっていいんだから」と言われたそうです。
✨😳ゴージャス✨😲😮
規模感が全く違いますが、晩年、私の父が時々大叔母を美味しいケーキ屋さんのイートインに連れ出しました。もちろん支払いは父がします。父はコーヒーとケーキのセットを注文します。大叔母にもコーヒーか紅茶とともに何か好きなケーキを頼むように言うのですが、大叔母は頑として飲み物を頼もうとしません。いくら勧めても、コーヒーや紅茶はいらない、水でいい、と聞かず、一番安価なスポンジ生地に生クリームが飾られただけのシンプルなケーキを一つ。あるいは、かぼちゃプリンを一つ。たまには違うのはどうか、と勧めてもいつもラインナップの中で一番安価なケーキを一つだけ注文して、頑なに飲み物は頼まないのでした。
大叔母は楽しい話をまくし立てるように話すのが好きな人でした。戦時下、従軍看護婦として戦地で働いた時のことはほとんど何も話しませんでした。ですが、人の生き死にのギリギリの場所で生き抜いてきた厳しさは、その身にすっかり染み込んで、随所にそれが滲み出していました。サバンナに生きる動物の、野生の匂い。弱肉強食の掟に従い、自然の摂理に抗わず、疑問も持たず、与えられた生をただ精一杯に生き抜く。そういうのって、隠せないものなんですね。本質っていうのは、敢えてそれを出そうとしなくても、現れてくる。自然に、オートマティックに。
大富豪家で、大叔母は頼られ信頼されて長く勤めました。
ご隠居さんのお世話が四六時中あるわけじゃないし、働き者なので、なんでもやって、学べることは何でも貪欲に学びました。女中さんの中には裁縫の上手い人もいたし、縫い物仕事はいくらでもあったので、大叔母は縫い物を手伝いながら上手い人から教わって、和裁もモノにしました。仕立てものの仕事を受けられるくらい、上手くなりました。
『はんてん』好きな私に、母の縮緬の着物をほどいて、縮緬のはんてんを縫ってくれたこともありました。
内向きの仕事をするうちに、奥様やお嬢様方にも信頼されて、悩みを打ち明けられたりもしていたようです。
ぼろぼろ涙を流して語り明かした日のこと
泣き崩れた日のこと
外目には恵まれた方々も、色んな苦しみ悲しみがあり、もがいて、生きているんだな、と思いました
前の奥さま(先妻?)は、深く悩まれ、海にお入りになったの(入水自殺された)、と大叔母が語った声音が今も耳に残っています。。
そして、大叔母自身、平坦でない人生を生き抜きました。富める者も貧しき者も、それぞれの修羅があるのです。
まだ若い年代で病弱な夫を亡くし、女手一つで二人の子を育て上げました。息子さんがまだ働き盛りの年で白血病に罹り、亡くなりました。しっかりと看病して、看取り、息子さんの死後は、まだ幼い孫たちの世話をしながら、お嫁さんを支えました。
皆、それぞれの道があり、それぞれの困難があり、それぞれの幸せがあるのだな。。
大叔母の話を聞きながら、私はそんな風に思ったのでした。